23年前の3月、
大学卒業と同時に私は仏門へ身を投じた。
その年の1月、関西では阪神大震災が発生し、
日本中が震えていた。
東京で下宿していた私は卒業前の春休み、
法衣やお経本を揃える費用捻出に、
工事現場でアルバイトをしていた。
バイト終了後、近くの銭湯へ入り
脱衣場のテレビを見ていたら
東京の地下鉄で
大変な騒ぎになっている映像が流れてきた。
年明け早々、二つの大きな暗雲が日本を覆っていた。
私が小僧生活を始めた山寺は当時、
駆け込み寺としてワケありの人達が
お寺に出入りして共同生活を送っていた。
その年、オウムを脱退した若者が
支援者や保護者と一緒にお寺にやってきた。
洗脳が解けたので、社会復帰する前の
リハビリにお寺で生活させて欲しい
との事だった。
同世代の彼に境内を案内しながら、
色々お話を聞いた。
人生について真剣に道を求めている
実に真面目な青年だった。
仏教にも詳しく、私などタイトルしか知らない
高度な注釈書や経典を読み込んでいた。
知識量と読解力は相当のものだった。
でも、彼は疲れていた。
求めても得られない人生の目的に
やるせなさと寂しさを漂わせていた。
そして、洗脳が解けたとはいえ
常人とは違う、印象的な目つきに
彼が辿ってきた宗教遍歴を感じた。
結局、彼はお寺に住み込むことなく
その日に帰っていった。
オウム=宗教=仏教=怪しい、怖い
オウム=ヨガ=怪しい、怖い
というイメージが歳月と共に薄れてきた頃、
ご縁があってヨガを学ぶ機会に出会った。
世間では西洋からの影響で
ヨガブームが盛り上がりを見せ、
怪しいイメージは払拭されてきた時期だったけど、
ヨガの講座や教室でも何かしら、
オウムが話題に出ることはあったし、
かつて教団に入信していた、という人を
目にする機会もあった。
そういえば、オウム信者が何故、日本のお寺へ
宗教を求めに行かなかったのか?という問いに
「お寺は風景でしかなかった」と返した言葉。
その言葉だけを切り取れば、
頷く日本人も結構いたことと思う。
今日、死刑が執行されたという速報を耳にして
23年間の歳月が心を駆け巡った。
思うこと、書きたいことは、
色々あるけれど、私の独り言は
ここまでにしたい。
夕方の勤行で、深く手を合わせた。